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1 はるか、ノスタルジィ 2012/02/15(水) 18:51:22.17 ID:5rMaFsQa0
島崎はるか、俺のクラスのマドンナだ。他の女どもには悪いが彼女は別格。

何かの拍子にはるかがニコリと微笑むと、俺にはマジで彼女の背中に天使の羽が見える!
国語の授業で指名されて教科書を読むはるか、体育でバドミントンのシャトルを追うはるか、俺は目を閉じるだけで、彼女の輝いている場面を瞬時に思い浮かべることができるのだ。

毎夜見る夢だって、もちろんはるかとの甘い新婚生活について。
「はるか、そんなにメロンパンばかり食べてたら体に悪いよ、あはは」
俺は暖かい布団の中で、この世に生まれた幸福を噛み締めていた。
その幸福の時間を引き裂くように、遠くでおふくろの声がする。
「コウちゃーん、早く起きなさーい。はるかちゃんが迎えに来たわよー」


2 はるか、ノスタルジィ 2012/02/15(水) 18:52:15.97 ID:5rMaFsQa0
俺は覚醒しかけている意識を無理やり殺して、再び夢の国へと逃避しようと努めた。
「コウちゃーん。まったくあの子ったら・・・はるかちゃんいつもごめんなさいね」
「良いんです。どうせ隣同士ですし、起こしに来たお礼にコウちゃんに鞄持ってもらいますから」
ドタドタドタという轟音とともに、はるかが階段を登ってくる。はるか―もうひとりのはるか。
「ほらコウちゃん、起きてー。遅刻するぞー」
はるかが無理やり布団を引き剥がす。瞬時に冬の寒さが、俺の体に染み渡る。
「んるせーなあ、朝っぱらから」
俺は面倒くさそうに答えながらも、なおベッドにしがみついて抵抗した。
「ったく、せえーっかく可愛い幼馴染が起こしに来てあげたっていうのに、何その態度。もう怒った」


5 はるか、ノスタルジィ 2012/02/15(水) 18:53:22.01 ID:5rMaFsQa0
俺は背中にもの凄い引力を感じた。はるかが俺を抱きかかえるようにして、無理やりベッドから引き剥がそうとしてきたのだ。
不意を付かれた俺は、抵抗する間もなく床に叩きつけられた。
(こんにゃろ、まったく乱暴なんだから)
だが、カーペットに打ち付けた腰の痛みなど序の口にすぎないと、次の瞬間思い知る。
いきなり右頬を平手で打たれた。激痛が走り、周囲を星が舞う。
「きゃあああああ、コウちゃんのヘンタイ!」
俺は何がなんだかさっぱり分からないまま、急激に現実世界へと引っ張り出された。
そして、こんな粗雑な起こされ方をされねばならない不条理に、無性に腹が立った。
「いきなり、何しやがんだ!」
怒鳴り声を上げてはるか―島田はるか―の方を見上げると、顔を両手で押さえて、耳は真っ赤になっていた。
俺は自分の下半身に視線を落としてため息をついた。(仕方ねーだろ、生理現象なんだからよ)
こうして賑やかに俺の一日がはじまる。


17 はるか、ノスタルジィ 2012/02/15(水) 23:57:49.76 ID:5rMaFsQa0
俺とはるか―島田はるか―は、学校を目指して走っている。
「チクショウ、遅刻じゃねーか」
「コウちゃんがぐずぐずしてるからでしょ!ノロマっ」
息を切らしながら悪態をつくはるかに、内心イラっときた。
(お前と一緒じゃなけりゃ、もっと早く走るんだよ!)
しかも何故か俺は、はるかの鞄を持たされている。
「コウちゃんのノロマー。ちょっと待ちなさいよ」
たったふた言の中に矛盾を孕ませながら、はるかはなおも喚いている。
まったく島崎はるかと島田はるか、名前の響きでいえばほんのちょっとの差なのに、どうしてこうも違うのだろうか。
島崎はるかは、島田はるかにくらべてずっと静かだし、女の子らしい。
迎えに来てくれるのが島崎はるかだったなら、俺はあと30分は早起きして、髪だってもっときちんと梳かしているところだ。


19 はるか、ノスタルジィ 2012/02/16(木) 00:00:10.55 ID:5rMaFsQa0
大体いくら幼馴染だからって、高校生の男子をつかまえてコウちゃんは無いだろうと思う。
これが島崎はるかなら、ちゃんと「三原クン」って呼んでくれる。
もし俺を迎えに来てくれるほどの仲だったなら、きっと下の名前で「耕太郎クン」って呼んでくれるに違いないのだ。
ひょっとしたら、制服のネクタイの歪みなんかも直してくれるかもしれない。
そんな想像をしていると、なんだか心がポカポカと暖かくなってきた。
「まったく、何ニヤニヤしてるのよ。変態」
追いついてきた島田はるかに後頭部をド突かれて、俺はまた現実に引き戻される。
「ってーなあ」
気がつけば校門の付近まで来ていた―始業のチャイムまであと二分半。


20 はるか、ノスタルジィ 2012/02/16(木) 00:02:14.65 ID:5rMaFsQa0
はるかとはクラスも同じだった。
しかし、はるかと一緒に教室に入るのは正直ちょっと避けたい。
からかわれたり、変な噂が立ったりするのも困るが、何より俺のマドンナ―島崎はるか―に見られたくなかった。
だからと言って、ここまで来て「お前、先に行け」というのもカンジが悪い。
俺は、いつもの手を使うことにした。
「おい、はるか」
はるかは俺の方に向き直り、目をクリっとさせて次の言葉を待っている。
俺は一呼吸置いてから続けた。
「お前、オッパイちょっとデカくなったか?」
次の瞬間、はるかの平手が俺の側面を殴りつける。
俺は地面に叩きつけられ、手に持っていた二つの鞄が宙に舞う。
はるかは自分の鞄だけ器用にキャッチすると、そのまま校舎に向かって走り去っていった。
(くうー、今日のはキツかったぜー)
クラクラとする意識で、遠くにチャイムを聞きながら、俺は作戦の成功を素直に喜ぶことにした。


35 はるか、ノスタルジィ 2012/02/16(木) 22:35:53.11 ID:w455XRn30
そんなこんなで、今朝もまた遅刻してしまった訳だ。今学期に入って十七回目。
流石に教師たちの心証も悪くなってくるというものだ。
ガキの頃から叱られるのには慣れてるが、説教されて気分が良い筈がない。
面倒なことになる前になんとかしなくてはならないが、如何せんアイツに付きまとわれては身動きが取れない。
苦々しい気持ちで島田はるかの方にチラリと目をやると、視線に気付いたのか、こっちを向いて小さく手を振ってきやがった。
(馬鹿ヤロウ、授業中だぞ!)
俺は呆れるやら、腹が立つやらで、思い切り不機嫌そうな顔を返してやったのだが、はるかはそれを見てますます愉快なようだった。
「お前ら夫婦は相変わらず仲が良いな」
隣の席の戸賀崎が、教科書の影に隠れながらニヤニヤこちらを見てきた。
こいつは図体がでかい癖して要領が良い。悪く言えばズル賢い。
小学校以来の腐れ縁で、なぜかこの野郎の悪戯に毎度付き合わされるのだが、バレた時に酷く叱られるのは決まって俺の方だ。こいつは大人が納得する謝り方ってのを良く心得ている。
将来はまともにそこそこ出世するか、大悪党になるかのどちらかじゃないかと思う。


37 はるか、ノスタルジィ 2012/02/16(木) 22:38:05.41 ID:w455XRn30
「うるせーよ。大体夫婦ってなんだよ」
俺は声を潜めながらも、強い調子で反論した。
勘違いも甚だしい。俺と島田はるかは、断じてそのような関係ではない。
そもそも俺とメオトの契りを交わすのは、島崎はるか―こちらのはるかサンでなくてはならないのだ!
教室の後ろ寄り、廊下側に陣取った俺の席からは、中央前寄りで退屈そうに授業を聞いている彼女の姿がよく見えた。
ちょうど冬の低い陽光が差し込んで、彼女の髪に天使の輪を作っている。
(前から可愛かったけど、このところ急に垢抜けたよなァ…)
欠伸を噛み殺す彼女に、つい子犬を見るような優しい視線を投げかけてしまっている俺に気づいてか、戸賀崎がさらに話しかけてきた。
「おい三原知ってるか、島崎のこと」
「何をだよ」
俺は思わず身を乗り出した。
「あいつ、今度劇団『海』の研究員のオーディション受けるらしいぜ」
「えっ」
俺は、驚いて思わず大声を上げそうになった。
島崎はるかは自分を表現することが好きで、管弦楽部と演劇部を掛け持ちで頑張っている。
俺の未来の妻のことだ、当然それくらいは承知している。しかし、劇団研究員のオーディションとは…。


38 はるか、ノスタルジィ 2012/02/16(木) 22:40:52.40 ID:w455XRn30
「戸賀崎、お前それ誰から聞いたんだよ。ていうか、もしそれに受かったら、学校とかどうすんだよ」
「本人が言ってたの聞いたんだからマジだぜ。研究員ったって色々だとは思うけど、稽古やなんかで忙しくなるだろ。まあ、芸能界で生きて行こうってんだから、学校は辞めるか、そうじゃなくてもあんまり来られなくなるだろうな」
目の前が暗転するような感覚がした。(そんな…)
これから少しずつ仲良くなって、3ヵ年計画で婚約までこぎ着ける筈だったのが、これでは予定が大幅に狂ってしまう。
三半規管がおかしくなった様に気分が悪い。こうして眺めているだけで幸せなのだ。
もし彼女にもうすぐ会えなくなるのだとしたら、今の俺には耐えられない!
「で、そのオーディションっていうのはいつなんだよ」
戸賀崎に必死の形相で問いかけたところで、バチンと頭の脇で何かが砕ける感覚がした。
国語教師でありクラス担任の秋元が投げたチョークが俺の耳の脇に命中して、机の上で粉々になっていた。
今日は朝から何度と無く痛い目に遭う。(完全なる厄日だな…)
「三原、戸賀崎、お前らちょっとは集中しろ」
なんとなく平板で柔和な印象を受ける語り口のせいで、この男が怒る時は、どのくらい機嫌を損ねているのかが分からない。
余談だが、この中年太りの高校教師の妻は、かつての教え子だそうである。
見かけによらずなかなかのやり手のようだ。


41 はるか、ノスタルジィ 2012/02/16(木) 22:47:25.98 ID:w455XRn30
「すみません」
戸賀崎は相変わらず、謝罪の言葉がすぐ出てくる。俺の方は、なんだか謝るタイミングを逸してしまっていた。
注意されたこと自体より、クラスの注目を浴びてしまっていることが恥ずかしくて嫌だった。
「三原、お前最近遅刻も多いし、成績だって右肩下がり。もう少し頑張らないと、志望の大学は受からないぞ」
正論だとは思うが、それをここでブチまけるなんて、デリカシーなさすぎだぜ、先生よォ。
ただ声のトーンからすると、大して機嫌が悪い訳でもなさそうだった―この微妙な区別がつくようになるまでには、かなりの熟練を要する。
まあ授業中に生徒同士が話しているなんて、この学校じゃよくあることだ。
「三原と戸賀崎の席をくっつけとくとロクなことにならない。三原、お前は常に俺の睨みが利くところが良いな。そうだな、市川と席替われ」
「えー。ってことは、わたし戸賀崎くんの隣ですかあ」
小柄な体格と、ほんわかとした性格のお陰で、クラスのマスコット的な存在になっている市川みおりが素っ頓狂な声をあげる。
「なんで嫌そうに言うんだよ」
戸賀崎が抗議する口調が可笑しくて、教室が笑いに包まれる。


42 はるか、ノスタルジィ 2012/02/16(木) 22:51:57.83 ID:w455XRn30
(市川と席を替わるってことは、俺が島崎はるか―マドンナ―の隣に座れる訳?)
席替えのたびに、神に祈ったマドンナの隣の席。三ヵ年計画を前倒しで進めなければない今、願っても無いチャンスだった。
(厄日だなんてとんでもない)
俺は、叱られた手前神妙な面持ちを保ちつつも、心の中で小躍りしながら、机の中に汚く押し込まれた教科書の類を引っ張り出していた。
俺は浮かれていた―あまりに浮かれていたために、島田はるかのどことなくジットリとした視線にはまったく気が付かなかった。


56 はるか、ノスタルジィ 2012/02/18(土) 00:49:34.69 ID:c27LBjJB0
「よろしく」
島崎はるかからニコリと微笑みかけられて、俺の胸は高鳴った。
「よろしくね」
精一杯の平静を装い、笑顔をこさえてみたものの、気持ち悪い雰囲気を醸し出していないかどうか心配だった。
俺が着席したところで秋元が咳払いし、授業を再開しようと何か言いかけたが、そこでちょうどチャイムが鳴り、授業が終わった。にわかに教室が騒がしくなる。
はるかは席を立たなかった。ただボーっと自分の爪を見ている。何か話しかけなければ、気まずい感じだ。
「島崎さん、あのさ」
はるかが、「ん?」というように首を傾げた。その仕草ひとつを取っても余りに眩しい。
「今度、劇団『海』のオーディション受けるんだって?」
「あー、三原クン、盗み聞きしてたんだー」
驚いたようにそう答えたはるかに、俺は慌てて言い訳をした。
「いや、そうじゃなくてさ。これはさっきトガ…」
そこまで言いかけたところで、背中をバチンと叩かれた。振り返るまでもなく、この感覚は島田はるかだ。
(こんにゃろ…)俺は叩かれた作用で前のめりになりながら、苦虫を噛み潰したような顔をした。


57 はるか、ノスタルジィ 2012/02/18(土) 00:53:58.09 ID:c27LBjJB0
「うぃいー。お二人さん、仲良さそうじゃん」
大声で喚く島田はるかの方を、俺はイライラしながら向き直ったが、横に島崎はるかの視線を感じて、努めて冷静に言葉を発した。ここで怒鳴ってはいけない。
「島田さん、何か用かな?」
「やめてよコウちゃん、『島田さん』なんて他人行儀な呼び方。いつもみたいにさ…」
「わかったから、用件を言ってよ」
「用事がないと話しかけちゃいけないの?ただコウちゃんの席が扉までの通り道になったから、ひと言挨拶したかっただけ。じゃあね」
さっぱり訳が分からなかったが、島田はるかはそれだけ言うと廊下に駆け出して行った。
(何なんだよ…)
しかし後ろ姿がどことなく寂しそうに見えて、俺はなんだか悪いことをしたような気分になっていた。
「島田さんて元気だなー。なんだかうらやましー」
島崎はるかが、何か圧倒されたような雰囲気で呟いた。
「島崎さんはそのままでいいよ」
俺がそう言うと、彼女はふふふと笑って「ありがとう」と答えた。
(今、俺ははるか―俺のマドンナ―の隣にいて、会話しているんだ)
実感が沸くと共に、心が幸福で満ちていくのを感じる。今は他の野郎どもの嫉妬の視線すら心地よく思えた。


63 はるか、ノスタルジィ 2012/02/18(土) 03:48:48.37 ID:c27LBjJB0
昼休み、俺は放送委員の当番だったため、放送室に篭って弁当を食っていた。
校内放送といっても、教員から伝えられた全校向けの連絡事項を二つ三つアナウンスしたあと、適当な音楽をかけるだけの楽な仕事だ。
一年生は何かしら委員会に属さなければいけないという規則上、もっとも負担の少なそうなものを選んだ。
当番は週に一度だけ。好きな音楽をかけることもできるし、放送が終わってしまえば、こんな風に『自分の城』で、誰にも邪魔されずに過ごせる。なかなか良い仕事だ。
俺はヘッドフォンでロックを聞きながら、おふくろの作ってくれた唐揚げを頬張っていた。
口煩いおふくろではあるが、こうして殆ど毎日弁当をこさえてくれるのだから、頭が上がらない。


64 はるか、ノスタルジィ 2012/02/18(土) 03:51:04.74 ID:c27LBjJB0
「わっ」
突然目の前が真っ暗になって俺は口から唐揚げを吹き出しそうになった。
「へっへーん」
ヘッドフォンを外して振り向くと島田はるかが立っていた。後ろから手の平で目隠しされたのだ。
「なんだ、お前かよ」
「誰だったら良かったの?」
はるかはそう言いながら、ポンっと机の上に腰を下ろした。
「誰であっても良くねーよ。心臓止まるかと思った」
俺は箸を持ったまま、胸のあたりを押さえるジェスチャーをした。
机の高さがあるため、はるかが俺を見下ろすような格好になる。
「さっきはごめんね、なんか空気読めなくて」
「国語の後の休み時間のことか?ああ、こっちこそ何だか悪かったな」
「それだけ言いたくってさ」
沈黙が流れた。ずっと見詰め合ってても気まずいので俺はまた弁当に箸を伸ばした。


65 はるか、ノスタルジィ 2012/02/18(土) 03:56:01.25 ID:c27LBjJB0
「なんだか最近、コウちゃんが遠くに行っちゃったみたい」
はるかが窓の外に視線をやりながら呟く。
「何それ?」
俺は思いっきり怪訝な表情を作る。
「だって小学生の頃はさぁ、結構一緒に遊んだりしたじゃん。近所の大島さんのところの柿の木によじ登って、実を盗んできたりさ。あとで滅茶苦茶怒られたけど」
「やめろよ昔話は。そういう話をし出すとオバサンになるぞ」
俺は懐かしさ半分、恥ずかしさ半分で苦笑いをした。
「あとコウちゃんよく私ん家に泊まりに来たよね。一緒に枕ならべてさ…」
「オイオイ、勘弁してくれよォ」
なんとなく耳の後ろが痒くなって、俺はカリカリと掻いた。俺だって思春期の男子だ。
子供の頃のこととは言え、この手の話はかなり恥ずかしい。はるかはなおも楽しそうに続ける。
「それでコウちゃんよくオネショして泣いてたよねー。それで仕方ないから、私のパンツ穿いてさー、『オシッコの穴が無い!』とかって大騒ぎして、ふふ」
「もうヨセよ」
俺は、頭のてっぺんからつま先まで茹で蛸のように真っ赤になっていた。
そして気が付く―マイクのスイッチがオンになっていることに。
「やべっ」
俺は慌ててスイッチを切った。そのころ教室は爆笑の渦に包まれていた。


72 はるか、ノスタルジィ 2012/02/18(土) 17:05:36.37 ID:c27LBjJB0
昼休みが終わりに近づいたところで、俺と島田はるかは放送室を出た。
そこで別れて、はるかは先に教室に戻り、俺は便所に寄った。
手を洗っているうちに、何だか外の空気が吸いたくなって、校庭に出てみた。
澄んだ青空がどこまでも高く、まるで吸い込まれてしまいそうだ。日向に立つと、まるで朝の冷え込みが嘘のような暖かさを感じる。
「サボりてえなあ」
あまりの気持ちよさに思わずそう呟いたところで、このところの遅刻の多さと成績下降で、親や教師に心配をかけていることを思い出した。
出席日数は十分足りているのだが、何となくこのままサボるのもためらわれる。
(俺って、意外に根は真面目クンだからな)
そんなことを思いながら踵を返した。

教室に帰ると、嬉しいことに島崎はるかが話しかけてきてくれた。
「三原クンってさ、結構な悪ガキだったんでしょ。中学のときに校舎の時計に登って、針の位置を変えたって聞いたよー」
「ああ、そんなこともあったな」


73 はるか、ノスタルジィ 2012/02/18(土) 17:07:23.40 ID:c27LBjJB0
言い訳になるが、それだって最初は戸賀崎が言い出したことだ。
でも面白がって実行したのは俺。あれは中学三年生のとき、秋の日の放課後のことだ。
校舎の壁にかかっている大時計は、ちょうど三階にあった俺たちの教室からすぐ脇に位置した。
手を伸ばすと文字盤の淵に届いたから、壁のひび割れに足をかけてよじ登ることができた。
俺は得意になって適当な時間に針を動かしたのだ。翌日、誰もが時計のおかしさに気づいて、ちょっとした騒ぎになった。
教室と時計の位置関係を考えれば、犯人が俺らのクラスに居るのはすぐバレる。
そして俺らのクラスでそういう馬鹿なことをする奴は、戸賀崎か俺に決まっていたから、あっという間にホシの見当がついた。
「お前らが落ちて怪我するのは自己責任だけどもなー、誰かがあれを直す必要があるんだぞ。その人が怪我したら、お前らどう責任取るんだ」
教師に思い切り殴られたのは、あの時がはじめてだ。俺も戸賀崎も、あの時ばかりはマジで反省した。


74 はるか、ノスタルジィ 2012/02/18(土) 17:10:54.64 ID:c27LBjJB0
「すごいスリルありそー」
はるかは興味深そうに目をキラキラとさせながら俺の方を見つめてきた。
目を合わすと射抜かれてしまいそうなので、俺は少し視線をそらしながら答えた。
「叱られたことしか覚えてないな」
それは正直な気持ちだった。あの時担任の教師は、俺と戸賀崎を殴りながら目に涙を浮かべていた。
相当な心配をかけてしまったことは、当時中学生の俺にも良く分かった。
「ふーん」
はるかはつまらなさそうに口をすぼめた。
「次に何か企てるときには、私も誘ってよ」
島崎はるかがそんなことを言うのは、かなり意外だった。
外見の可愛さにばかり目が言っていたが、本当はお転婆をしてみたいのかもしれない。
「悪いことはよした方が良いよ」
そう言いながらも俺は、はるかのもうひとつの側面を見てみたくなっていた。
いつも教室で静かに授業を受けている彼女とは違う、本当の島崎はるかを―。
かと言って、男友達とふざける時のような危険な遊びを、彼女とする訳にはいかない。
ふと、ひとつの考えが浮かんだ。


75 はるか、ノスタルジィ 2012/02/18(土) 17:13:28.44 ID:c27LBjJB0
「島崎さんって、小さい頃からこの町に住んでるの?」
「ううん。中学のときに、お父さんの仕事の都合で越してきたんだ」
はるかは、何で急にそんなことを聞くのかというように俺を見つめた。
「それじゃあ、美ヶ岬にはまだ行ったことがない?」
「ウツクシガミサキ?」
「この町の外れにあるんだ。小さな灯台が建ってる。海岸線がすごく綺麗で、島が遠くの方までいくつも見える。いつ行ってもカモメが沢山飛んでる」
はるかは、まだ合点がいかないような表情を浮かべている。
「今から一緒に行こうよ。バスで片道三十分。今行けば、部活の時間までには戻ってこられる」
俺がそう捲くし立てると、はるかは驚いて目をパチパチとさせた。
「えー、だってこれから授業だよー」
そう言ったものの、声のトーンは明らかに興味を示していた。あともう一押し。
「さっき、悪巧みに加わりたいって言ったばかりじゃないか。この町に住んでいて、美ヶ岬に行ったことがないなんて、モグリだよ」
「今度の日曜日じゃ駄目かな…」
「週末じゃあ天気がどうなるか分からない。今日はすごく良い天気だよ」
チャイムが鳴った。
「さあ、先生に見つからないうちに早く。俺は行くよ」
俺は席を立って、もう廊下に駆け出していた。はるかがついて来なければ自分ひとりでサボれば良いだけのことだ。


92 はるか、ノスタルジィ 2012/02/19(日) 03:28:57.41 ID:spNYSgnj0
路線バスは、町外れの古い家並みを縫って行く。
高校のある町の中心部に比べてやや荒い路面が続き、ウトウトとしだした俺の意識は、車輌の不定期な振動によって現実との間を行き来する。
急な右カーブを曲がりきると、左手の車窓にキラキラと光る海が見えてくる。
冬のカモメの群れと沿岸漁業の船たちを景観に添え、道はまた緩やかに左へ向きを変える。
「わー、こんなに近くに海があったんだねー」
島崎はるかは、はしゃぎながらバスの窓を少し引き開けた。
風が車内に吹き込み、彼女の制服の胸のリボンをヒラヒラと揺らす。髪をかきあげた右手の下からのぞく笑窪が眩しい。
乗客は俺たちの他、一番後ろの席に年配の女性が座っているだけだった。
俺とはるかが高校近くのバス停から乗車する際、運転士が一瞬怪訝そうな顔をしたが、「今日学校は午前中までなんです」と答えると、そのまま乗せてくれた。
はるかとちょっとした後ろめたさを共有している―そのことに、俺はますますドキドキした。


93 はるか、ノスタルジィ 2012/02/19(日) 03:33:16.75 ID:spNYSgnj0
バスを終点で降りると、すぐ近くに灯台が見えた。そこが美ヶ岬だ。
海から運ばれてくる風は、冷たいようで暖かいようで、潮の香りがほんのりとした。
下車する時に黒いコートを羽織ったはるかは、少し寒いのか、頬を林檎のように紅潮させていた。
「あー、パン屋さんだー。寄っても良い?」
俺は勿論というように頷いた。ポツポツと立ち並ぶ商店のうちの一軒がパン屋になっていて、はるかの大好物、メロンパンの幟がヒラヒラとはためいていた。
(前に来たときにこのパン屋はあったかな。そもそも前に来たときって、いつだったんだっけ)
外で待っていると、はるかがすぐにメロンパンを買って出てきた。
「お昼、あんまり食べなかったから…」
はるかがどこか言い訳めいた口調になる。
「でもコレ、まるまる一個食べたら流石に太っちゃうなー。三原クン、半分食べてよー」
正直に言うとあまりメロンパンは好きでなかったし、昼に食べた唐揚げがまだ胃にもたれていた。しかし、はるかに言われたのなら断る訳にいかない。
俺は笑顔で、はるかから大きい方の半分を受け取った。


94 はるか、ノスタルジィ 2012/02/19(日) 03:36:42.18 ID:spNYSgnj0
灯台の脇が斜面になっていて、俺とはるかはなるべく陽の当たる場所を選んで腰を下ろした。
快晴の空の下、島々が遠くの方までポツポツと見えた。やはり絶景である。
沖合いをゆっくりと航行する船は、島を行き来する連絡船だろうか。長い汽笛を響かせていた。
もう少し海岸に近いところに、初老の夫婦らしき二人組みが見えた。平日の午後とあって、それ以外に人影はない。
はるかは、メロンパンを一口頬張ってから、大きく伸びをした。
「私、授業サボったのなんてはじめてー。でも潮の香り、なんだかなつかしー」
(懐かしいか…)
そう言えば、前にここへ来たときも、授業を抜け出したんだっけ。
中学に入ってから、頑張ってはいるのに、なんとなく勉強について行けない感じがしていた。
英語の女教師のことが特に嫌いで、顔も見たくないほどだった。
今考えればガキっぽい理由な気がするが、そんなことで色々と情緒がおかしくなっていて、あの時はじめて授業をサボったのだ。


95 はるか、ノスタルジィ 2012/02/19(日) 03:47:08.47 ID:spNYSgnj0
(そうだ…あのときは、アイツが一緒だった)
教室に入ってきた英語教師とすれ違う様に、不貞腐れた表情を浮かべて逃げ出した俺のことを、島田はるかが心配して追いかけてきた。
そして、「サボるんなら良いとこ教えてあげる」と、アイツが俺をこの岬に連れて来たのだ。そのことは今の今まですっかり忘れていた。
あの日、島田はるかは幼な子にかえったようにはしゃいでいた。二人で波打ち際まで降りていったときに、思い切り水をかけられたので、俺は結構怒った記憶がある。
でもそんなことがあって、俺の気持ちは吹っ切れたように思えるし、英語の成績もそれ以上に悪くはならなかった。
俺の記憶の中、中学生の島田はるかは、裸足になって波打ち際のツルツルとした岩肌を歩いていた。
こちらに満面の笑顔を向けいている。しかし、いつしか笑顔の中に寂しさが混じり、終いには怒った表情を浮かべていた。
眉間に皺を寄せ、「コウちゃんのバカー」と叫んだ。
(何で怒られなきゃいけないんだよ。アイツとの思い出の場所に島崎はるかと来たからか?忘れてたんだから仕方ないじゃないか。
チクショー、せっかくマドンナとのデートだっていうのに、なんでアイツのこと思い出さなきゃなんねーんだ)


117 はるか、ノスタルジィ 2012/02/19(日) 23:52:50.90 ID:spNYSgnj0
風は思い出を運んでくる―懐かしい感傷とともに。
島崎はるかは、ゆっくりと立ち上がって、まっすぐ海を見つめた。
「私ねー、小さい頃から転校が多かったんだけど、幼稚園のときかな、海の近くに住んでたんだァ。夏には、よく家族で海水浴とかしたの。それでかな、磯の香りって何だか安心する」
そう言ってからからクルリと振り返り、ニコッと白い歯を見せた。
「三原クン、今日はありがとう。隣の席になって良かった」
天使のような笑顔でそう言われて、俺はデレデレに照れていた。
「いや、こっちこそ、サボるのに付き合ってくれて、その…ありがとう」
俺がはにかむように微笑み返すと、はるかは悪戯っぽく小首を傾げた。
「でも三原クンって結構ゴウインだなー。最初は授業サボるの抵抗あったんだけど、あんな風にひとりで走って行っちゃったから、つい勢いで追いかけちゃった」
海からは断続的に風が吹き、はるかのサラサラとした髪をなびかせる。
憧れのマドンナが目の前に居て、俺とのデートを喜んでくれている―俺は幸せだった。
(確かに強引に誘ったけど、それでもついて来てくれたんだから、これは結構ミャクがあるんじゃないか?)
それとも、はるかはただ、何かちょっぴりワルいことをしてみたかっただけだろうか。今までのおとなしくてマイペースな彼女と、何かが変わり始めているのだろうか。
また海の方へ向き直ると、はるかは俺にとも自分自身にとも言えるような調子で話し出した。
「私ねえ、役者になりたいの。演劇部で演技をするようになって、レッスンも受けて、ほんの少しだけれども、今までと違う自分に出会えた気がする。だから本格的に芝居をやってみたい」


118 はるか、ノスタルジィ 2012/02/19(日) 23:58:10.16 ID:spNYSgnj0
俺は「応援するよ」と言いながら、腰を上げてはるかの方へ歩み寄った。
はるかは、一瞬だけまた嬉しそうに微笑んだあと、今度は急に芝居がかった所作で続けた。
「女流作家とか女優とか、そんな幸福な身分になれるものなら、わたしは周囲の者に憎まれても、貧乏しても、幻滅しても、りっぱに堪えてみせますわ。
屋根うら住まいをして、黒パンばかりかじって、自分への不満だの、未熟さだの意識だのに悩んだって構わない。その代り、わたしは要求するのよ、名声を… 本当の名声を」
台詞の最後で声を張り上げた彼女に、俺は拍手を贈った。
「でも、名声っていうのは要求して得られるものでもなよね。イメージだけど、芸能界っていうのは運の要素も大きそうだし。才能のある者でも、チャンスの順番に恵まれなければ、埋没していく」
そう言った俺に、はるかは真顔で答えた。
「このニーナっていう人物は、女優を目指して、一見すごく不幸な人生をたどるの。人生を芝居に賭けても、名声は最後まで得られないけど、それでも何かに気が付く…」
はるかの、大人のようで少女のような横顔を見つめながら、俺は急に自信を失ってしまった。
芸能界という荒波に飛び込もうとする彼女にとって、俺は付き合うに足る男だろうか。彼女にとって俺は、芸の肥やしになりうるだろうか。
ふいに、右手が柔らかい感触に包まれた。はるかの細い指が、俺の手を引いている。
「あの岩の下、海水に触れるところまで行ってみたい」
そう言いながらも、はるかは既に足早に歩き出していた。


119 はるか、ノスタルジィ 2012/02/20(月) 00:03:58.77 ID:CsSLaSyO0
階段状の岩を降りていくと、平らな岩浜に出る。満潮時はきっと完全に海水に浸かっているのだろう。
流されてきた海藻などが、あちこちに貼りついていた。
はるかは、脱いだコートを張り出している枝に掛け、それから濡れないように革靴と靴下を脱いだ。
ヒラヒラとするスカートの隙間から、彼女の白く美しい素足が垣間見え、俺は思わずドキっとなる。
「きゃっ、冷たい。やだー」
海水につま先を浸して、慌てて引っ込めるはるかは、また少女の表情に戻っていた。
「三原クンもこっちおいでよ」
上空ではかもめの鳴き声が幾重にも聞こえ、まるで協奏曲のようだ。
(芸能界に進む彼女。いつか会えなくなるかもしれないけれど、今俺ははるかと二人きりの時間を共有しているんだ)
また心の中に陽射しが差し込んだように、暖かい気持ちがしてきた。
それと同時に、胸のどこかにズキンとした痛みを感じた。
風は思い出を運んでくる―懐かしい感傷とともに。


143 はるか、ノスタルジィ 2012/02/20(月) 19:30:50.04 ID:CsSLaSyO0
予定のバスに乗り遅れてしまった。次のバスまでは、四十分も待たなければならない。
上着を羽織っていても、屋外でじっとしているのは寒い。風邪を引いてもいけないので、俺と島崎はるかは喫茶店に入った。
昔ながらの喫茶店という雰囲気で、店内は細長くて狭い。そして、煙草の臭いが染み付いている。
道路に面して大きな窓があり、その窓にくっつけてテーブルが並んでいる。窓の反対側はカウンターになっていた。
俺とはるかは、テーブル席に、向かい合って腰を下ろした。他に客は誰も居ない。
カウンターの裏から年配の女性が出てきて、愛想笑いのひとつも浮かべずに、テーブルに水のグラスを置いた。
「俺はブレンド。島崎さんは?」
「私はミルクティー」
女性は、注文を取ると、無言のまま、またカウンターの向こうへ去っていった。
「ごめん、部活の時間に間に合わないね」
俺は、そう言って詫びた。
「いいよ、とっても楽しかったから」
はるかは、海辺ではしゃいでせいか、少し疲れているようにも見えたが、それでも嬉しそうに笑顔を作った。
店内には、おそらく六十年代のものと思われる洋楽が、二人の会話を邪魔しない程度の音量で流れている。そして、コーヒーを淹れる柔らかな音が聞こえてくる。
「でも、ふたりで授業サボったから、ウワサになっちゃうかもねー」
はるかはそう言って、今度は悪戯っぽく笑った。


144 はるか、ノスタルジィ 2012/02/20(月) 19:33:08.07 ID:CsSLaSyO0
飲み物が運ばれてくる。冷え切った体に、コーヒーの温かさが染み渡る。
はるかは猫舌なのか、ふーふーっと、何度か息を吹きかけてから紅茶に口をつけた。
「あぢぢ」
小さく呟いた彼女のことが愛おしくて、俺は微笑んだ。今日一日ですっかり心が打ち解けた。
(それに、何だかすごく良い雰囲気だ)
俺は再びコーヒーを口に運ぶ。店内は、静かなBGMと、カップがソーサーに触れる微かな音だけが聞こえる。
「今度来たときは、船に乗りたいなァ。それで、あの島のどれかに行きたい。いいでしょ?」
はるかが無邪気に問いかける。
また胸の奥がズキンと痛んだ―あの日、島田はるかと連絡船に乗ったことを思い出したから。
「ん?ああ…」
俺は、笑顔を繕って生返事をした。
愛しのマドンナを前にして、またしてもアイツのことを思い出した自分自身に対して、少し動揺していた。


145 はるか、ノスタルジィ 2012/02/20(月) 19:36:37.75 ID:CsSLaSyO0
島崎はるかは、ニコニコと話を続ける。
「きっと夕暮れ時になったら、海がもっと綺麗だろうなァー。ねえ、いっそこのまま日が暮れるまで居ようか?そうしたら船にも乗れるんじゃないかな?」
俺は黙ってしまった。はるかは、じっと俺の返事を待っている。
この数時間を島崎はるかと過ごして、俺はますます彼女に夢中になってしまいそうだった。
もう今までのように、空想の中だけの彼女ではない。彼女はすぐ手の届くところに居る。
でも空想でない現実の島崎はるかに夢中になることに対して、心の何かがブレーキをかけていた。
(こんな絶好のチャンス、逃しちゃだめだ!)
そして、俺はやっと口を開いた。
「そうしよう。島崎さんがそれでいいなら、そうしよう」
けれどもはるかは寂しそうな顔をして、「もういいよ」と言った。
何だか心の中の迷いを見破られたような気がして、俺は心底情けなかった。
「これ以上演劇部の皆にも迷惑掛けられないから、今日は遅れちゃったけど、ちゃんと練習に出る」
「そ、そうだね。その方が良いね…」
せっかくの良いムードを台無しにしてしまったことがショックだった。


146 はるか、ノスタルジィ 2012/02/20(月) 19:39:00.38 ID:CsSLaSyO0
つき合わせてしまったお礼に、紅茶をご馳走したいと申し出たが、はるかは、「悪いから」と言って、財布の中から五百円を出した。
帰りのバスは、何となく気まずくて、お互いに口を利かなかった。さっきまで、あんなに楽しかったのに。
(全部アイツのせいじゃないか…)
あの日、連絡船から見た風景は、確かに綺麗だった。空と海と島々が、すべて夕陽の茜色に溶かされていく。そんな神々しい光景だった。
カモメの鳴き声と船のエンジンの音が、ありありと思い起こされる。
中学生だった俺と島田はるかは、デッキから身を乗り出して風景を眺めていた。
「コウちゃん、綺麗だねー」
海風を受けながら嬉しそうに言った島田はるかの顔も、夕陽の色に染められていた。
確かに懐かしい記憶だった。でもそれは、今の俺の島崎はるかに対する思いに、何の関係もない筈のことだった。
俺は苛立った。自分でもよく分からない感傷に、心が揺れ動かされていることが悔しかった。

高校近くのバス停で下車したあと、俺はもう一度はるかに礼を言った。
「今日はありがとう」
「こちらこそ、本当に楽しかったよ」
寂しげに微笑んでから、彼女は学校の方へ駆けて行った。俺はひとり家路に就いた。


173 はるか、ノスタルジィ 2012/02/21(火) 18:31:23.95 ID:Gj5Ump1n0
不思議なもので、家に着く前から、なんとなく予感はしていた。
果たして、玄関を開けると俺や家族の靴に混じって、女子生徒用の革靴がちょこんと揃えられていた。
「おかえりー、遅かったわね。はるかちゃん来てるわよ」
そう言いながらおふくろが出てくる。
「今日部活休みなら一緒に帰ってくれば良かったのに。コウちゃんの部屋に上がってもらったから」
俺は靴を脱ぎながら、おふくろに抗議の目を向ける。
(いくら幼馴染とは言え、思春期の男子にはいろいろと見られちゃヤバいもんもあるんだからさ…)
おふくろはそれには構わず、「あっそうだ、お弁当箱だして」と続ける。
俺は黙って空の弁当箱を差し出すと、ゆっくり階段を上がった。
背中越しに、「キレイに食べちゃって」と機嫌良さそうな声が聞こえる。俺はため息をついた。

「コウちゃんおかえり」
ベッドに腰掛けたまま出迎えた島田はるかの声のトーンは、至ってフツウだった。いささか身構えていた俺は、肩透かしを食らった。
「ただいま…」
俺はデスクセットの椅子の上に、上着と鞄を乱暴に投げ出した。
いつもなら挨拶代わりに「何の用だよ」なんて言うところだが、今日はおとなしくしておいた方が良いと、男のカンが警告する。


174 はるか、ノスタルジィ 2012/02/21(火) 18:34:52.79 ID:Gj5Ump1n0
床の上に、紅茶のポットと花柄のカップが二つ、それにクッキーのセットが、きちんと盆に乗せられて置いてあった。
「あっ、それさっきお母さんが持ってきてくれたの」
俺は無言のまま、それぞれのカップに紅茶を注ぐ。自分の分はそのまま、はるかの分には砂糖を二つ落としてやる。
「今ダイエットしてるから、砂糖要らないや」と、はるかが言う。
(先に言えよ!)
俺は心の中でムカっとしながら、仕方なく何も入れていない方のカップをはるかに渡す。
「ありがとう」
はるかはそう言うと、ズズズと音を立てて紅茶を啜った。
俺も紅茶に口をつける。菓子は良いが、甘い飲み物は苦手だ。
「お母さんには言わなかったよ、授業ふたつもサボったこと」
ちょっと嫌味ったらしく聞こえるが、ここは耐えないといけない。
「デート、楽しかった?」
はるかの抑揚のない問いかけに、俺は飲みかけの紅茶をカップに吹き出した。むせ返って咳が出る。
「ちょっと大丈夫?」
はるかが慌てて、俺の背中を擦る。俺は咳き込みながら、右手を上げて、大丈夫だとジェスチャーした。


175 はるか、ノスタルジィ 2012/02/21(火) 18:38:04.36 ID:Gj5Ump1n0
気まずい沈黙が続いた。いつもの島田はるかの元気さは感じられなかった。
そして、その原因は多分―いや絶対、俺にあった。
手持ち無沙汰になって、俺はクッキーに手を伸ばした。そのクッキーを口に入れようとした瞬間に、はるかがポツリと口を開いた。
「島崎さんと何処に行ったの?」
俺は、口をあんぐりと開けたまま、固まってしまった。何も答えられなかった。
答えのないことは予期していたのだろう。はるかは暫く俯いていたが、突然、まるで張り詰めた糸が切れたように声を上げて泣き出した。
両手を顔に当てて、声を押し殺すように泣いている。
「おいおい」
俺は慌てて立ち上がると、デスクの上のティッシュを鷲づかみにして、ベッドの上のはるかに渡す。
はるかが乱暴に鼻をかむ。俺は、はるかの横にそっと腰を下ろした。そっと背中をさすってやる。
一瞬落ち着いたように見えたが、また我慢できなくなったのか、今度は俺の胸に顔を押し付けて泣き出した。ワイシャツにはるかの涙が滲んだ。
俺ははるかの背中に両手をまわす。甘いシャンプーの香りが鼻腔をくすぐった。
(今まで気がつかなかった―いや、気づかないふりをしていたけれど、はるかは俺のこと…)
「コウちゃん、わたし…」
俺の腕の中で、くぐもった声が聞こえた。


228 はるか、ノスタルジィ 2012/02/22(水) 21:08:41.09 ID:p3+DLGYS0
「コウちゃん、わたし…」
俺の腕の中、涙に濡れながら呟いた島田はるかの声が、鼓膜から離れない。
アイツが帰ったあとも、俺の頭は、まるで熱でも出したかのようにクラクラしていた。

「ご馳走様…」
俺は、夕食に半分も手をつけず、食卓を立った。そのまま、食堂とひと続きになっている居間へ行き、力なくソファに腰を下ろす。
おふくろが心配そうにこちらを見る。
「具合でも悪いの?」
俺は、無言のまま首を振る。おやじは、関心が無いのか、そっとしておこうという気遣いなのか、こちらには目もくれずに日本茶を啜った。
気を紛らわそうと思ってテレビを点けてみたが、くだらないバラエティ番組の内容は、まったく頭に入ってこない。
島田はるかの泣き腫らした顔が脳裏に浮かんで、胸を締め付けた。

「わたし…コウちゃんの…ことが…」
はるかは、文節一つひとつを噛み締めるように、小さな声を出した。
最後の「好き」は、殆ど聞き取れないほどの、ほんの微かな空気の振動だった。


229 はるか、ノスタルジィ 2012/02/22(水) 21:11:12.33 ID:p3+DLGYS0
幼馴染のささやく様な告白を受けて、全身がカッと熱くなるのを感じた。脈を打つ速さが指数的に増す。
はるかの気持ちを聞いてしまった以上、俺も返事をしなくてはいけない。俺の気持ちもはるかに伝えなくてはいけない。
ところが、その自分の気持ちの所在がさっぱりわからなかった。
憧れの島崎はるかとはじめてデートし、一瞬でも心が通いあった喜びと、幼馴染でいつも俺を支えてくれた島田はるかを大切に思う気持ち。二つの異なる想いの間で、俺は揺れていた。
(何か、言わなくちゃ)
そう強く思えば思うほど、俺の思考は空回りし、喉と肺が、ただ乾いた空気を出し入れするだけだった。
こうなることは、きっとずっと前から予期していた筈なのに…。
俺は黙って、はるかのツルツルとした髪を撫でた。そうすることしかできなかった。
それからはるかは、まるで眠ったかのように静かだった。
はるかの吐息のぬくもりが、ワイシャツ越しに伝わる。それは、波が静かに寄せて引くように、規則的なリズムを刻んでいた。


230 はるか、ノスタルジィ 2012/02/22(水) 21:14:36.42 ID:p3+DLGYS0
どれほどの時間そうしていたか、俺は思い出すことができない。
はるかが、ゆっくりと上体を起こし、腫れぼったい目で俺を見つめる。無理に繕った笑顔が痛々しい。
「わたし、なんか面倒くさい女だね」
「そんなこと…」
大切な幼馴染にそこまで言わせてしまった自分が憎かった。
はるかは、わざとらしいほど快活で、大きな声で続けた。
「でも、なんかスッキリした。コウちゃんが島崎さんのこと好きだったとしても、私に責める資格なんてないし、それに私のことは私のことで大事に思ってくれているのは分かったから」
はるかのことをここまで追い詰め、傷つけたのは、他ならぬ俺だった。それなのに、はるかはどこまでも俺を庇おうとする。
「でも今度でいいから、ちゃんとコウちゃんの気持ち聞かせて。わたし、はっきりノーって言われるまでは諦めないから。
少しでも可能性があるのなら、わたし、コウちゃんの気持ちを信じるから…」
俺は、情けなさと申し訳なさを込めて、大きく頷いた。こんなにもはるかを愛おしいと思ったことはなかった。


231 はるか、ノスタルジィ 2012/02/22(水) 21:17:59.87 ID:p3+DLGYS0
点けっぱなしのテレビは、いつの間にかバラエティ番組が終わって、短いニュースのコーナーになっていた。
(俺は一体どうしたいんだ…)
今度は島崎はるかのことが、思考を支配した。
ずっと憧れていたけれども、今日まではあまり話したことのなかった彼女。
授業を抜け出して、ふたりで行った岬。水に浸した彼女の足元から上がった水飛沫。
また連れてきてほしい、今度は船に乗りたいと言いながら、俺に向けた笑顔。そして、別れ際の寂しそうな後ろ姿。

ニュースは記者会見の場面を流していた。どこかの大企業の重役が、死んだらしい。
若い女優の卵の部屋で脳出血を起こしたのだそうだ。俺の意識は急激にそのニュースに焦点をあわせた。
その重役の顔は、経済番組か何かで見覚えがあった。彼が息を引き取ったホテルの部屋には、大阪で公演中の劇団『海』の研究員が滞在していたという。
彼女の通報で、救急隊員が駆けつけたときには、もう手遅れだった。
記者会見場では、芸能レポーターが次々に、その研究員に意地の悪い質問を浴びせかける。
「お金が目的だったんでしょう」
「法律には触れなくても、道徳的には問題だよ」
フラッシュを浴びながら、二人の間には確かに愛があったのだと泣き崩れる女優の姿に、未来の島崎はるかが重なるような気がして、俺の胸は言いようの無い不安に包まれていた。
(どうか、今の純粋なままの君でいて欲しい…)


278 はるか、ノスタルジィ 2012/02/24(金) 00:01:23.77 ID:9KkwUuYX0
翌日、随分早い時間に目が覚めてしまった。いまひとつはっきりしない意識のまま顔を洗う。
食堂へ行くと、おやじが新聞から一瞬だけ目を離し、「おはよう、早いな」と関心なさそうに言った。
俺も「おはよう」とだけ言って、パンをトースターに突っ込む。ポットの中の紅茶をカップに注ぎ、テーブルに就く。
台所のおふくろも気が付いて、こちらに顔を向ける。
「おはよう。たまご焼いてあげようか?」
「おはよう。別に良いや…」
居間のテレビが点けっ放しになっていて、朝のワイドショーが流れている。
件の、大阪公演中に会社重役とのスキャンダルが発覚した劇団『海』の研究員は、急遽東京公演ではヒロイン役を演じることになったらしい。
「死んだあの人も喜んでくれると思います」という白々しいコメントが読み上げられている。
(スキャンダルを逆手にとった客寄せって訳か…)

島田はるかが家のチャイムを鳴らす頃には、俺はすっかり出かける準備を整えていた。
「コウちゃんを叩き起こさないと、一日がはじまった感じがしないなー」
はるかがもの足りなさそうに呟く。
いつもの通学路も、今日の様にゆっくり歩くと、ちょっとした変化に気が付く。
近所の植木は自分が子供の頃より一回り大きくなっていたし、ついこの間着工したと思ったマンションは、もう完成間近であった。
「俺がボーっとしている間にも、世界は動いてるんだな」
「コウちゃん、今日はヘンなこと言うね」
丸い目をクリッとさせてこちらを見るはるかは、普段どおりの彼女だった。何気ない日常。


279 はるか、ノスタルジィ 2012/02/24(金) 00:08:34.44 ID:9KkwUuYX0
始業まで十分な時間があるうちに、校門が見えてきた。いつものお約束をしなければならない。
俺は足を止めて、島田はるかの方に向き合い、徐に言葉を発する。
「昨日思ったんだけどさ、お前最近、腰周りがエロく…」
言い終わらないうちに、はるかの鞄が俺の顎に、下から叩きつけられる。これは痛い。
俺は激痛に涙目になりながら、一メートルほど叩き飛ばされる。
あまりにキッチリと命中したため、はるかは「コウちゃん、大丈夫」と言いながら、自分の口を手で押さえた。
完全にバランスを崩してゆっくりと倒れる俺の視界に、ひとりの少女がよろめくのが見えた。
(あぶない!)
とっさに両腕で彼女を受け止める。その衝撃もあって、もの凄い勢いで尻餅をついた。
顎と尻の痛みで、一瞬気を失いかけた。だが、俺に覆いかぶさるように倒れた少女の、甘い香りと柔らかな肌の感触に、意識が覚醒される。
「大丈夫ですか」と声をかける。
(なんかラッキーかも…)
そう思いながら、少女の顔を見て驚いた。
「目の前で急に倒れたら危ないでしょ…」
文句を言いながら顔を上げた少女も、俺に気が付く。
「三原クン…」、「島崎さん…」
ふたりは唖然として暫く見つめ合っていたが、島崎はるかは急に我に返り赤面した。
「きゃっ」と小さく叫んだかと思うと、サッと起き上がって走り去ってしまった。
残された俺はそのままボーっとしていた。彼女の体重の感覚が、まだ全身に残っている。
ふいに、温かい感触を鼻の下あたりに感じる。手で拭うとベットリと血がついた。
「コウちゃん、凄い鼻血」
島田はるかが慌ててティッシュを取り出して、俺に渡した。


322 はるか、ノスタルジィ 2012/02/25(土) 00:24:10.63 ID:zBoRRNDm0
結局、島田はるかとふたりで教室までの廊下を歩いている。
「わたしが抱きついても、顔色ひとつ変えないくせに」
はるかが拗ねた様な口調で言う。俺はそれには答えず、ただ首筋を掻いた。

鼻にティッシュを詰め込んだ情けない格好で教室の扉を開ける。なんだか注目されている様な感じがして恥ずかしい。
俺は自分の席まで歩き、ひとまず隣の席の島崎はるかに声をかける。
「おはよう」
「三原クンのヘンターイ」
彼女は挨拶を返す代わりに悪態をつき、それから「いーっ」と舌を突き出してみせる。
俺はムッとして抗議の言葉を返す。
「仕方ないじゃないか。あれは事故だよ」
そうは言ったものの、ラッキーだと思ったのには違いなかった。俺に覆いかぶさったはるかの感触が蘇り、また気分が高揚した。
俺は机の上に鞄を置くと、努めて平静を装いながら椅子を引いた。椅子と床が擦れ、キーッという耳障りな音が立った。
驚いたようにこちらを見上げる島崎はるかと、お互いの視線が重なる。
俺は言うべき言葉が見つからず、とりあえず無理やり笑顔を繕う。
はるかは、キリリとした表情を崩さないまま、「すごく恥ずかしかったんだから」と非難する。
言い合っていても仕方が無いので、今度は「すみません」と素直に謝った。


323 はるか、ノスタルジィ 2012/02/25(土) 00:30:02.96 ID:zBoRRNDm0
一時限目の化学は、老教師の声があまりにも眠気を誘う。
珍しく早起きしたせいもあるだろうが、自分では二度か三度船を漕いだつもりでいたのが、気が付いた時には授業が終わっていた。ノートにはミミズが情けなく踊っている。
休み時間になっても、なんとなく俺から島崎はるかに声をかけるのがためらわれた。
今朝の一件に加え、昨日機嫌を損ねてしまったこともあるからだ。
隣同士で黙って座っているのも気まずいので、俺は戸賀崎の席まで行ってくだらない話をした。島崎はるかとのことを聞かれるかと覚悟していたが、そんなことはなかった。
今朝の俺たちの様子を見て、コイツなりに何か察したのだろうか。

しかし、二時限目の数学が終わると、島崎はるかの方から声をかけてきた。
授業で分からなかったことを訊いてきたのだ。はるかがノートの記述をペンで指しながら俺に見せる。
「ココの、『区間の分割は任意でよい』ってどういうこと?」
数学だけは比較的得意な俺は、俄然やる気を出す。
「等間隔に区切っても良いし、全然バラバラの長さに分けても良いってことだよ」
「えー、どうして?」
「どうしてって、これはそういう風に定義するって記述だから」
はるかは、どうも納得いっていない様子だ。俺は説明を続けようと口を開きかけたが、はるかがそれを遮った。
「うーん、よく分かんないや。三原クンの説明はいまひとつ分からないなァ」
(自分から訊いておいてそんなこと言うかよ)
俺は内心少し腹が立ったが、それよりも話すきっかけができたのが嬉しかった。


325 はるか、ノスタルジィ 2012/02/25(土) 00:39:32.57 ID:zBoRRNDm0
「私ね、今度の週末オーディション受けるために東京へ行くの」
はるかが続けて俺に話し出す。
「研究員になれたら、東京の近郊で安いアパートを借りて、アルバイトしながらレッスンに通う」
俺は黙って聞いている。はるかは、決意に満ちた表情で続ける。
「お父さんも、お母さんも勿論猛反対だったけど、私は、無謀でも今やれることに挑戦したいんだァ」
彼女の横顔を見つめながら、胸の中に様々な思いが去来したが、俺はただ「頑張ってね」とだけ、励ました。
彼女はニコリと微笑んで、「ありがとう」と言った。
ふいに、ワイドショーで見た女優の卵のことを思い出す。スキャンダルに塗れ、芸能レポーターたちの前で涙を流す彼女。
あれはどこまでが本当で、どこからが演技なのか。
これからは、女優としての島崎はるかにしか会えなくなってしまう気がして、たまらなく不安だった。
昨日海辺ではしゃいでいた、少女らしい島崎はるかは、どこへ行ってしまうのだろうか。いや、それすら本当の彼女だったのだろうか。
取り留めの無い思考が駆け巡り、俺の気分は落ち込んだ。
「この町を離れる前に、あの船に乗りたい」
はるかはそう言いながら、じっと俺を見つめた。


338 はるか、ノスタルジィ 2012/02/25(土) 12:22:00.77 ID:zBoRRNDm0
午後になって急に天気が崩れた。重い雨雲のせいで、窓の外は悲しげな薄紫に沈む。
放課後、廊下を歩きながら、俺は途方に暮れていた。
(やっべーなあ、傘持ってないし…。あと一時間くらいで止むかな)
殆ど幽霊部員となっている山岳部の部室にでも顔を出そうかと思案していると、突然大声で呼び止められた。
「おい三原」
驚きながら振り返ると、戸賀崎が靴底をペタペタと鳴らしながら走ってくるのが見える。
やっとこちらに追いつくと、息を弾ませながら俺の肩に右手を置く。
「ラーメン食いに行こうぜ、今から」
「良いけどさ、お前野球部の練習サボったら先輩からボコられるんだろ?」
俺が心配してやると、戸賀崎は豪快に笑った―いや、単に体が大きいせいで、豪快に見えるだけかもしれない。
「たまには殴られるのも野球部の醍醐味だぜ。この雨なら室内での個人練習だし、誰に迷惑かける訳でもないからさ。それより俺、腹減っちゃってさ」
そう言われると俺も腹が減っているように思えてきた。
「だけど俺、傘ねーんだよ」
「心配すんなよ、俺のに入れてやるよ」
そう言った戸賀崎の手には、小さな黒い折り畳み傘が握られていた。
「お前と相合傘かよ…」
そんな俺の文句を、戸賀崎はまるで相手にせずに笑い飛ばす。


339 はるか、ノスタルジィ 2012/02/25(土) 12:25:44.59 ID:zBoRRNDm0
案の定、大の男二人に折り畳み傘一つでは小さすぎる。ましてや相合傘の相手は体格の大きな戸賀崎である。
触れ合う肩が気持ち悪くてたまらない。戸賀崎と少しでも体を離したいが、そうすると土砂降りの雨に打たれる。俺は最適解を探して、体の位置を色々と変えてみる。
雨の中を暫く歩くと、駅前の商店街に出た。本屋の広い軒先で、何人もの人が雨宿りしていた。普段は空いている喫茶店も、突然の雨のお陰でにわかに繁盛している。
歩道橋に登ると、向こう側から近くの女子高校の生徒が、鞄で頭だけを隠して駆けて来た。俺たちと擦れ違う際に、一瞬だけ怪訝な視線でこちらを見た。

踏切を越えて、商店街の反対側を外れの方まで歩くと、戸賀崎のお気に入り『あみなラーメン』がある。俺もコイツに連れられて、何度か来たことがあった。
湯気で曇ったアルミサッシの引き戸を開けると、若い女店主が「いらっしゃい」と元気よく迎えてくれる。
店内は、カウンター席だけが十ほど並んでいる。蛍光灯の明かりが仄暗く、どことなく寂しげな雰囲気がするが、ラーメンの味は確かだ。
「あー、トガちゃんじゃない」
野球部の練習後に、ほぼ欠かさずこの店に通っているという戸賀崎は、女店主からよく可愛がられていた。
「ごちそうさん」
俺たちが適当な丸椅子に腰を下ろしたのと入れ違うように、一人だけいた先客が席を立った。灰色のジャンパーを着た中年の男で、頭の頂上付近まできれいに禿げ上がっている。
丸椅子をカウンターの下に戻した振動で、ビール瓶の奥に置かれた餃子の皿から、割り箸が転がり落ちる。男はゆっくりとした動作で箸を拾い上げると、また空の皿に載せた。


340 はるか、ノスタルジィ 2012/02/25(土) 12:30:40.36 ID:zBoRRNDm0
店内にはAMラジオがかかっていて、男女一人ずつのアナウンサーが、コミカルに掛け合いをしている。
ラーメンは、十分も待たないうちに出てきた。
「おまけで大盛りにしといたから」
女店主のサービスは嬉しかったが、豚骨醤油ベースのこってりとしたスープは、おやつ時に食べるのにはかなり重たい。
「おお、姉さんいつもありがとう」
戸賀崎は嬉々として箸を割る。
俺はまず丼を持ち上げて、黄金色のスープを口に含む。胃の中が一気に熱くなる感覚が心地よい。焦がしニンニクの何ともいえない香ばしさが鼻から抜ける。
続いて麺。殆どつなぎを使っていないストレート麺が、この店のウリだ―博多風の豚骨ラーメンと比べるとやや太い麺が、それ故にスープに負けない存在感を示している。

戸賀崎が半分、俺が三分の一ほど食べ終えたところで、戸賀崎が話しかけてきた。
「お前なんだか暗いな、今日」
「そう見える?」
会話をする時も、お互い視線は丼に向けたままだ。
「悩んでるのは島崎のことか、それとも島田のことか?」
俺は無言で麺を啜る。戸賀崎も丼を持ち上げてスープを飲む。沈黙が続く。
ラジオから聞こえる女子アナウンサーの笑い声がやたらと陽気で、雨の降り続く町と対照を成していた。


341 はるか、ノスタルジィ 2012/02/25(土) 12:35:56.46 ID:zBoRRNDm0
「要するに両方ってことか」
戸賀崎がひとりで納得したように呟く。ヤツの丼は、殆ど空になっていた。俺は、観念したように昨日のことを話して聞かせる。
島崎はるかと美ヶ岬へ行ったこと、良い感じで盛り上がったのに、ちょっとしたことで機嫌を損ねてしまったこと、そして、家に帰ってから島田はるかに告白されたこと―。
「それで、お前はどうしたいんだよ」
戸賀崎に当然の質問をされて、俺は返答に詰まった。昨日からそれをずっと考えているのだ。
また暫く沈黙が続いたが、その空気の重さに耐え切れず、俺は未整理のまま話し出した。戸賀崎なら、俺が甘えたことを言っても、受け止めてくれる気がした。
「俺はずっと島崎に憧れていたんだ。けれども、いざ仲良くなってみると、何が本当の彼女だか分からない」
戸賀崎は黙って、丼に僅かに残っていたスープを飲み干した。俺は箸を止めて続ける。
「俺は無邪気で気まぐれな島崎が好きだったけど、彼女の方はどんどん女優に、大人の女になっていくんだよ。それに芸能界に入れば、裏では色々なスキャンダルもある」
自分で言っていて恥ずかしくなり、俺は慌てたように麺を啜る。その勢いが強すぎてて、むせ返って咳き込んだ。
戸賀崎は黙って俺のグラスに水を注ぎ足す。その水を飲み干してから、俺は自分自身に言うように呟いた。
「彼女の中に、俺の知らない部分が増えていくのが怖いんだな」


342 はるか、ノスタルジィ 2012/02/25(土) 12:40:41.27 ID:zBoRRNDm0
「口を挟むようで悪いんだけどさ…」
女店主が耳の後ろを掻きながら、こちらに話しかける。
「人を好きになるってのは、その人の見えない部分や、過去とか未来とか、喜びも悲しみも全部ひっくるめて好きになるってことじゃないのかな」
カウンターの一段高くなっているところに両肘をつき、彼女は照れ臭そうに続ける。
「いや私もね、君たちくらいの頃はいろいろ恋をしてさ、彼氏の元彼女に嫉妬したりとかさ、とんでもなくヤンチャなヤツを好きになったり、浮気されたり、そりゃ色々あったけど、それでも好きなものは好きだから、その気持ちだけには正直でいたよ」
戸賀崎が同調するように、
「『好き』って気持ちは、まっすぐな方が良い。ヘンに拗らせると怪我の元だぜ」と言う。
俺は、二人の話を聞きながら柔らかいチャーシューを齧る。
「オバサンの戯言だと思って聞いて欲しいんだけどさ、舞台の上の顔しか見えないとしても、舞台裏の顔まで受け入れてあげるのが、人を愛するってことじゃないかな。綺麗ごとに聞こえるかもしれないし、人間である以上は難しいんだけどね」
戸賀崎が俺の背中をポンと叩く。
(俺は、舞台裏の見えない彼女まで好きになれるだろうか…)
ガラガラと引き戸が開く。「参っちゃったよ、急に降り出すからさァ」と言いながら、恰幅の良い中年男が入ってくる。店主は、その客と世間話を始めた。
「だけど、女の方から告白するなんて、島田って意外に格好良いな。どっちにしてもちゃんと返事してやんなきゃ駄目だぜ」
最後は戸賀崎の口調が強くなった。


354 はるか、ノスタルジィ 2012/02/25(土) 22:03:19.70 ID:zBoRRNDm0
雨の日が続いた。戸賀崎に、「男ならハッキリさせろ」と言われたものの、なかなか自分の気持ちの整理がつかないまま、週末を迎えた。
土曜日になってやっと雨が上がる。昨日までの憂鬱さが嘘のように、空が青かった。
久々に感じる陽射しの明るさが気持ちよくて、俺は窓をいっぱいに開けた。今日は頬に当たる風も幾分か暖かい。
ベッドの脇の時計を見ると、まもなく正午になろうという頃だった。
(今ごろ島崎はるかは東京へ向かう列車の中だろうか)
目の前の宿題には手が付かなかった。ノートに運動量保存の式を書き出して、そこから三十分何も進展がない。俺は、今日何度目かの『気分転換』をしようと決めた。
階段を下りると、おふくろが食卓で雑誌を読んでいた。
「ねえ、俺が小さい頃のアルバムってあるかな?」
おふくろは雑誌から顔を上げると、暫く考えてから答えた。
「また急にどうしたの?たぶんお父さんの部屋だと思うけど…」
「ありがとう」
俺は礼を言いながら、テーブルの上のクッキーに手を伸ばした。この間、島田はるかが、ダイエット中だと言って手をつけなかったクッキーだ。

手に付いた粉を払いながら、釣りに出かけて留守にしているおやじの部屋に入る。
本当に俺と血が繋がっているのかと疑いたくなるほど、おやじの部屋は綺麗に片付けられている。
(几帳面だな…)
だがそのお陰で、子供の頃のアルバムはすぐに見つかった。写真は時系列ごとに数冊のアルバムに分けられ、きちんと本棚に納められていた。


355 はるか、ノスタルジィ 2012/02/25(土) 22:08:38.80 ID:zBoRRNDm0
そのうちの一冊、小学校高学年時代のものを取り出し、ページを捲る。古い写真特有のにおいがする。
(俺って、こんな顔だったっけ?可愛くねーな)
着ている洋服などは記憶に残っていたため、間違いなく自分の写真だとわかる。
けれども、この半ズボンを穿いた、田舎臭くて目の細い少年が自分だというのは、できれば認めたくない事実だ。
どちらかと言えば、その少年と時々一緒に写っている少女の方が、今も面影を残している。
「はるか…」
どの写真でも、少年がブスっと不機嫌そうな顔をしているのに対し、少女はキラキラと笑顔を輝かせていた。
(コレなんか、なかなか可愛く写ってるな…)
そのうちの一葉に目が留まる。小学生の島田はるかは、まん丸の顔に大きな麦わら帽子を被っていた。半ズボンのように短いキュロットスカートを穿いて、こちらにピースサインを向けている。
他の写真と照らし合わせて考えると、きっとうちのおやじと川釣りに行ったときのものだ。
あの時、俺は一匹も釣れなかったのだが、はるかの方は初めてと思えないくらい上手かった。
俺の釣竿にも、魚が食いつきはするのだが、竿を引くタイミングを焦りすぎて一向に釣れない。
そんな俺を尻目に、はるかは二時間ばかりの間に二、三匹釣り上げていた。
そうなると俺の方はますます焦って、何も上手くいかない。釣り糸が向こう岸の枝に絡まってプツンと切れたとき、俺は我慢ができなくなって泣き出した。
「わたしの釣ったのコウちゃんにあげるからー」
はるかがそんなことを言うので、俺はますます激しく泣いたのだった。
あれ以来、俺の中で釣りはトラウマになってしまい、おやじに誘われても決して付いて行こうとはしなかった。
(おやじも寂しかっただろうな…)


356 はるか、ノスタルジィ 2012/02/25(土) 22:12:21.72 ID:zBoRRNDm0
続いて中学の頃のアルバムを開いてみたが、はるかと一緒に写っている写真は、入学式や卒業式といった行事の他に殆ど見当たらなかった。
きっと一緒に写真に撮られるのが恥ずかしい年頃だったのだ。
俺は今度は逆に、小学校低学年、幼稚園と時代を遡っていく。時間を遡れば遡るほど、俺とはるかはベタベタとひっついて写っている。
プールサイドで水着で写った写真、浴衣姿で西瓜に齧り付いている写真、どれも小さい子供ならではの微笑ましさと可愛さがあった。
(あいつは、いつから俺のこと…)
はるかから抱きつかれて頬にキッスされている写真を見つめながら、俺は暫く考えていた。

アルバムを戻そうとしたとき、本棚から一葉の写真がヒラリと落ちた。
おやじの古い写真ならば、今のアルバムみたいにフィルムに挟むのではなく、糊で直接台紙に貼り付けてあるものもあるだろう。それがきっと剥がれて落ちたのだ。
俺はその写真を拾い上げて、思わず息を呑む。今と体型や化粧の感じは違うが、間違いなくおふくろの写真だ。
(おふくろ…)
舞台衣装を身に纏い、スポットライトを浴びるおふくろが立っているのは、小さいけれども立派なステージの上だった。
写真の裏に、おやじの筆跡で日付、そしてその横に「かもめ」と書かれていた。
(おふくろ、役者だったのかよ…)


386 はるか、ノスタルジィ 2012/02/26(日) 20:00:30.71 ID:/8K5h/Do0
週が明けて月曜日になると、気温は急激に下がり、霙混じりの雨模様となった。
島田はるかも俺も、口数少ないままに登校する。二人とも片手で雨傘を差し、もう片方の手をコートのポケットに突っ込んでいる。厚手のマフラーと帽子のせいで、お互いの表情もよく分からない。
最近は、はるかに叩き起こされることもなくなった。一度早起きの習慣ができてしまえば、継続するのはそれほど困難ではなかった。
(やっぱり心の底で、はるかに起こして貰いたかったんだろうな…)
自分の中の甘えや感傷に向き合い、一つひとつ心のアルバムに整理することが、前に進むために必要だと思った。

オーディション合格の報せは、島崎はるか本人の口から聞いた。
「もう来週明けには東京に行くよ。暫くは先輩の家に下宿して、それからアパートを探すんだ」
今まで恋焦がれていた彼女が、いよいよ遠くへ行ってしまうのだ。実感が強くなるごとに胸は苦しくなったが、今は彼女の決めたことを応援したい気持ちの方が強くなっていた。
「寂しくなるけど、三原クンの隣の席になったのは、良い思い出だよ」
彼女の目にうっすらと涙が浮かんだように見えた。
「自分の好きなことに一生懸命になれるのは、素敵なことだと思う」
俺は思ったままを素直に言った。
「うん、ありがとう。やっぱり芝居が好きだよ」
そう言いながら彼女はパッと明るい笑顔を作った。瞳や口元から漂う雰囲気が華やかで、微かながら女優の風格を感じた。
そして彼女は続けてこう言った。
「最後にひとつだけ我侭を聞いて。今度の土曜日、あの船に乗せてよ。この町のこと、よく覚えておきたいから」
俺は黙って頷いた。彼女の心のアルバムに、美しい海の風景を残してあげたいと思った。


387 はるか、ノスタルジィ 2012/02/26(日) 20:10:06.90 ID:/8K5h/Do0
放課後には、雨は小降りになっていた。それでもまだ雲は厚く、放送室の中は蛍光灯を点けても薄暗かった。電気ストーブのオレンジ色だけが、周囲との調和を拒むかのように明るい。
「はるか…ごめん、俺…」
ゆっくりとそう言った俺に、島田はるかは優しく微笑みかけた。
「そんな暗い顔して、コウちゃんらしくないぞォ」
こうやっていつでも、前を進んで行くのははるかの方だった。いつだってはるかが、情けない俺を励まし、受け止めてくれた。それはアルバムを見返した時に、改めて気が付いたことだった。
次に継ぐ言葉を失っている俺を、はるかは低く暖かいトーンの声で包み込む。
「分かってたよ…何年も一緒に居るんだもん。コウちゃんの気持ちなんて、とっくに分かってた」
はるかはゆっくりと窓際まで行き、右手をガラスに添える。雨のグラウンドを見つめるその背中にはやはり、寂しさが滲んでいる。
「島崎さんに、ちゃんと想いを伝えなよ…わたしも…」
微かに声を震わせながらここまで言うと、はるかは黙り込んだ。静かな室内に、彼女の息遣いだけが聞こえる。
静寂の中でピンと張り詰められた空気を破るように、はるかが突然こちらを振り向いた。
「わたしも、もうすぐこの町から居なくなるから!」
「えっ?」
俺は驚きのあまり、自分の意思とは関係なく、ただ口をパクパクと動かした。
何気なく思えた日常の眩しさに、俺は、それが終焉を迎えるまで気が付かなかった。
「ずっと言えなかったけど、お父さんの仕事の都合で大阪に引っ越すの。だから、もう今週いっぱいでコウちゃんとも会えなくなる」
一気に言い切ってから、はるかは大きく深呼吸した―昂ぶった気持ちを静めるように。
「でも気持ち、伝えられて良かった。今はすごく晴れやかだよ」
笑顔で見せるピースサインが、アルバムの中の写真と重なった。


388 はるか、ノスタルジィ 2012/02/26(日) 20:14:46.83 ID:/8K5h/Do0
次の土曜日、島崎はるかは待ち合わせ場所のバス停に、遅れて現れた。俺はすでにバスを一本見送っていた。
「ごめんなさい。荷造りがなかなか終わらなくてー」
はるかはそう言ってペコリと頭を下げた。白いセーターに、ピンクのロングスカートのコーディネートが、どこか春の訪れを感じさせる。胸にはハート型のペンダントが光る。
(そう言えば、私服を見るのは初めてかもな…)
天気予報によると午後から雨が降ることになっていたが、空は気持ちよいほどに晴れて、気温も高かった。だからジャケットは着ず、手に持ったままバスを待った。

連絡船の乗り場は、美ヶ岬からさらに十分ほど歩いたところにある。
船は一時間半おきに港を出発する。三つの島を順に巡り、最後はまた元の港へ帰って来る。
このルートに初めて定期便が設定されたのは、戦前の事だという。現在も連絡船は、島に住む人々にとっての唯一の公共交通機関である。
最近は、今日の俺たちのように、船から眺める海の景色を楽しむために乗船する客も増えてきた。
午後五時ちょうどに出発する便は、学校帰りの高校生などが多く乗船し、座席は七割ほど埋まっていた。
俺は、島崎はるかの手をそっと取って、デッキに出た。柔らかな風が頬に暖かく触れ、微かに春の気配を運んでくる。
大きな汽笛が鳴り響き、船はゆっくりと岸を離れた。上空のカモメの群れが、いっそう騒がしくなる。モーターの音がカタカタと聞こえる。
沖へ出るに連れて船はスピードを上げ、軌跡に白い波を踊らせていた。
「スピードが出てくると寒いねー」
はるかは、そう言いながら自分の肩のあたりをさすり、身震いするような仕草を見せる。
俺は、手に持ったジャケットをはるかの肩にかけてやる。


389 はるか、ノスタルジィ 2012/02/26(日) 20:19:33.21 ID:/8K5h/Do0
一つ目の島で、半分以上の乗客が下船した。乗ってくる人は殆ど居ない。船は十分ほどで、またゆっくりと出港する。
ふと気が付くと、陽が段々と傾いてくる。海は、今ぐらいから日が沈むまでの間が一番綺麗だ。
「わー」
はるかは興奮しながら、輝く海を見ている。やがて空と島が茜色に染まり始める。
海側を見ると、小さな島々が、黄金色に輝く海の中に溶け出していた。また陸側は、やはり空の茜色を映した霞の中に、稜線が幾重にも見え隠れし、幻想的な雰囲気を醸し出している。
「すごく綺麗…耕太郎クンありがとう」
初めて下の名前で呼ばれ、俺は照れ臭くも嬉しかった。それ以上に、風景を楽しむはるかの自然な笑顔が愛おしかった。

「島崎さん…はるか…さん」
俺が呼ぶ声に、はるかがこちらを振り向く。夕陽が彼女の体に、光と影の対照を作り出している。
俺は、ずっと言いたかった言葉を胸の中から紡ぎ出す。
「俺、ずっと君のことが好きだったんだ」
また汽笛の長い音が響いた。次の港が近いのかもしれない。


394 はるか、ノスタルジィ 2012/02/26(日) 20:24:27.00 ID:/8K5h/Do0
はるかは、柔らかな笑顔で俺のことを見つめる。そして、ゆっくりと話し出す。
「嬉しい。私も前から耕太郎クンのことが気になっていたし、隣の席になってから、ずっとニコニコしてたよ…」
俺は緊張して、唾液を飲み込んでから言葉を発する。
「これからもずっと好きでいて良いかな」
はるかは答えない。俺は、自分の中の勇気をすべて振り絞ってさらに続ける。
「アパートが決まったら住所を教えてよ。手紙も書くし、夏休みには遊びにも行く。女優として成長していく君を、見守って居たいんだ」
はるかは、優しい笑顔のまま黙っている。俺は、じっと彼女の次の言葉を待った。
「ありがとう…気持ちは嬉しい」
そう言って彼女はまた海に体を向けた。デッキから半身を乗り出す。
「でも耕太郎クンが好きになったのは、女優に憧れてた女の子の私でしょ。だったらその私をそのまま好きでいて欲しい…」
俺の方に向き直ったはるかは、真面目な顔―大人の表情をしていた。
風にさらわれて顔にかかった髪を、右手で払いのける。
「女優は、ステージに立つためなら何だってするんだから。だから…女優の私は、劇場でだけ見ていてほしい」
寂しそうな表情で見つめられて、俺はそれ以上何も言えなかった。
急に夕陽が目に染みて、眩しく感じられた。


396 はるか、ノスタルジィ 2012/02/26(日) 20:29:02.06 ID:/8K5h/Do0
どっぷりと日の暮れた中を家路に就く。島崎はるかの言葉が頭の中で何度も再生される。
(女優はステージに立つためなら何でもする。女優の私は劇場で見て欲しい…か…)
心にぽっかりと開いた穴を、夜風が吹き抜けていくようだった。
家へと続く坂道を見上げる。坂の途中に、こちらを見つめる人影があるのに気が付いた―街灯に照らされて島田はるかが、俺の帰りを待っていた。俺を見つけるとこちらへ駆け寄って来る。
「どうだった?うまくやった?」
ワンピースにカーデガンを羽織った、女性らしい格好は、この時間には随分肌寒そうに見えた。
「お前、いつから居たんだよ。寒いだろ、そんな格好じゃ」
「明日、荷物積んで大阪に行くの。最後にコウちゃんに、今までありがとうって言いたくて…少しだけど、お化粧もしたんだァ。どう、少しは大人っぽい?」
はるかはそう言って微笑んだ。
「はるか、お前…」
一連の会話を見届けたかのように、突然天気が崩れる。天からバケツをひっくり返したように雨が降ってくる。
俺は急いではるかに駆け寄ると、自分の着ていたジャケットを頭からはるかに被せる。
「とりあえず、家へ入ろう。このままじゃ風邪引くから」
大粒の雨が二人の頭上に降り注ぐ。
「ここで良いよ!」
はるかが大声で叫んて、俺の両腕を掴む。俺ははるかの背中に腕を回し、そっと撫でてやる。
腕の中にはるかの体温とにおいを感じる。不思議な安心を与えてくれる彼女にも、もう会えなくなる…。
俺を見つめるはるかの目から、ひと筋の雫がこぼれ落ち、せっかくの化粧を溶かしていく。
もう顔中がグシャグシャになって、雨粒だか涙だか区別がつかない。


397 はるか、ノスタルジィ 2012/02/26(日) 20:32:48.47 ID:/8K5h/Do0
「コウちゃん、私が居なくなっても、ちゃんと自分で起きて学校行くんだよ…でももう心配ないか…」
俺は無言で頷く。はるかが俺の胸に一層強くしがみつく。
「コウちゃんの胸、あったかいね」
今日まで、俺がはるかに甘えるばかりで、結局一度も甘えさせてあげられなかったなと思う。
「さようなら…コウちゃん…好きだったよ」
せめてはるかの気の済むまで抱きしめていようと思った―いや、本当は俺もはるかとの別れが惜しくてたまらなかった。
ひとしきり静かに泣くと、はるかは意を決したように頷いて、俺から手を離した。
俺もそっと、はるかから手を解く。それを合図にしたように、はるかは走り出し、雨の中に消えていった。

俺はそのままずっと雨の中に佇んでいた。腕の中にはまだはるかの温もりが残っていた。
ずぶ濡れになりながら、俺は殆ど無意識に、また彼女の名前を呼んでいた。
「はるか…ありがとう」
瞼が熱くなった。


398 はるか、ノスタルジィ 2012/02/26(日) 20:35:58.37 ID:/8K5h/Do0
ちょうど一週間後の土曜日、俺はおやじの隣で釣竿を垂らしていた。川のせせらぎが気持ち良い。
「釣りは忍耐が肝心だぞ」
そう言うやいなや、おやじの浮きが沈む。おやじは素早く、それでいて確実に竿を引き、リールを巻き上げる。
しかし、餌に完全に食いついていなかったのか、魚は途中で逃げてしまったようだ。
「ま、こんなこともあるさ」
おやじはいつになく多弁だった。釣り箱から餌を取り出して、また針に付ける。
俺は気になっていたことを聞いてみた。
「おふくろって、どんな女優だったの?」
おやじは黙って浮きを見つめている。またおやじの浮きが沈む。
「ほーら来た」
今度はちゃんと釣り上げる。釣られた魚は、バケツの中でピクピクと尾をバタつかせた。


399 はるか、ノスタルジィ 2012/02/26(日) 20:40:09.50 ID:/8K5h/Do0
結局俺は一匹も釣れなかった。これは本格的に向いていないのだろう。
帰りの車、運転席のおやじはとても機嫌が良さそうだった。
途中のガソリンスダンドで、俺は二人分のコーヒーを買いに行った。並々とコーヒーが注がれた紙のカップをそっとおやじに渡す。
「ありがとな」
元気なおやじだが、そう言って笑ったときの皺の数に、流石に年齢を感じた。
俺は助手席に座ってコーヒーを飲む。
また一層春が近づいてきたのだろう。ぽかぽかとした午後の陽気が気持ちよかった。

「母さんはなあ」
おやじがポツポツと話し出す。
「綺麗で人気もあったんだけど、ある時スキャンダルで駄目になって…それからは鳴かず飛ばずだったよ。
父さん、劇場にずっと通ってたけど、可哀相だったな。芝居止めるって言い出したときは、もうボロボロだった」
俺は黙って聞いていた。おやじはそれ以上は何も言わず、遠くを見るような目をした。
「さぁ、行くか」
おやじがエンジンのキーを回した。


400 はるか、ノスタルジィ 2012/02/26(日) 20:44:27.93 ID:/8K5h/Do0
そして、時は流れる。
「ねえ、あなた聞いて。はるみったら高校の演劇部に入ったみたいなの」
仕事から帰ってワイシャツを脱ぐ暇もないうちに、女房が心配そうな表情で長話を始める。一度話し出すと、小一時間は止まらない。
最近は、女房の話を聞くのも第二の労働のように思える。
(これも国民経済計算に含めても良いのではないか…)
俺はそんなことを思いながら冷蔵庫からビールを出し、グラスに注ぐ。
「ほお、良いじゃないか」
テーブルにゆっくりと腰を下ろすと、運動不足のせいか、腹回りの肉が気になる。
「そんなー。将来、芸能界に入りたいとでも言い出したらどうするの」
女房はなおも心配そうに眉間に皺を寄せる。俺は、笑いながらグラスに口をつける。
「その時は、その時また考えればいいことじゃないか」
彼女は、俺のその態度が気に入らないらしい。
「まったく呑気なんだから。それにね、未だに幼馴染のユウト君の家に、毎朝起こしに行ってるのよ。彼、昔から優柔不断だから…」
俺は、とりあえず女房に調子を合わせて「心配だな」などと言いながら、心の中は懐かしい気持ちで満たされていた。
「それよりはるか、台所から美味そうなにおいがするね」
文句ばかり聞かされる結婚生活は、とても理想とは言い難い。けれども、女房の手料理は最高のご馳走だ。


403 2012/02/26(日) 20:50:08.77 ID:/8K5h/Do0
妄想おしまい

まずは、ここまでスレを保守していただき。最後まで物語を進める機会を下さった皆さんに感謝申し上げます。

ストーリーの最後は自分の中でも色々と葛藤がありましたし、皆さんの読みたいものになったかは分かりませんが、
私なりの「青春らしさ」を表現しました。

最後の一節の中に光を見つけていただければ幸甚です。

後で参考にした映画等のリストも載せます。


404 名無しさん@お腹いっぱい。 2012/02/26(日) 20:53:47.50 ID:ZK9xXPNJ0
いや~楽しかったです!


409 名無しさん@お腹いっぱい。 2012/02/26(日) 21:00:36.46 ID:3hfrqo2W0
なるほどw結末は読者に委ねるって手法なんですね

412 名無しさん@お腹いっぱい。 2012/02/26(日) 21:01:26.72 ID:1zvSYfW/0
こういう青春を過ごしてみたかった。

414 名無しさん@お腹いっぱい。 2012/02/26(日) 21:05:18.16 ID:vuo85HbrO
素晴らしい。
今までで一番良いよ


419 名無しさん@お腹いっぱい。 2012/02/26(日) 21:19:18.04 ID:ZK9xXPNJ0
ラジオドラマで再現してほしい!


420 名無しさん@お腹いっぱい。 2012/02/26(日) 21:21:25.06 ID:dnyqUN+Ci
だらけないぐらいの長さで楽しめました。
次回作期待してるよ


もしぱるるがマドンナで島田が幼馴染だったら妄想

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